かつて一つだったアーゼマとメネフィナ―太陽と月、光と闇、ダラガブと月、ハイデリンとゾディアーク―


※以下、ネタバレ注意です。

◆はじめに
 本稿は、これまでの執筆者のエオルゼア十二神に関する妄想を前提にしたさらなる妄想文となる。その前提となることとは、創世神話の記述に基づき、日神アーゼマを「光」、月神メネフィナを「闇」として捉える、という点である(拙稿参照)。
 以上を念頭に置いて、今回の『EncyclopediaEorzea VolumeⅡ』(以下『EE2』と略記する)と見ていくと、それらを改めて裏付けるような事実や記述が多く見られた。『EE2』と前書の『EncyclopediaEorzea』(以下『EE1』と略記する)を突き合わせつつ、主にアーゼマとメネフィナという二柱の神について考察を深め、さらに両者の関係性から読み取れる世界の理を、『EE2』に掲載された新資料(事実)を軸に裏付けていきたい。

◆ナルザルとアーゼマ・メネフィナ
 FF14世界(三大州)の神話に興味がある者にとって、『EE2』の「エオルゼアの宗教」の記述は垂涎ものである。そこでまず焦点があてられていたのが、ウルダハの事実上の国教である「ナル・ザル教団」である。地底と商売を司る男神「ナルザル」について、次のように紹介されている。

「ナルザルは二面性がある一柱の男神とも、双子の神とも解釈されるが、同教団は後者の立場を採り、ナル神とザル神を区別している。ナル・ザル教団の教義によれば、双子の神はそれぞれ異なる世界を見守っているとされており、それぞれナル神は生者の世界を、ザル神は死者の世界を司る」(『EE2』20頁) 

 第一に、双子の神という扱いが他の神には見られず異例である。
 「双子」は、FF14世界(三大州)を構成する重要な要素の一つである。我々のよく知るアルフィノとアリゼーが最も有名な双子であろう。それだけではない。ベラフディアの王位継承を巡って対立した王子たちも双子である。さらに、アウラ・ゼラにおいては、通称「双子の民」と呼ばれるヒマー族すら存在する(生まれてくる子供に双子が多い)。
 次に重要なのが、その双子のナル・ザルが司る世界である。「ナル神は生者の世界を、ザル神は死者の世界を司る」とあるが、生を「光」、死を「闇」と捉え直すとどうであろう。ナル神=アーゼマ、ザル神=メネフィナとして考えることができやしないか。
 エオルゼア十二神であるメネフィナに相応する東方の神は、夜と月を統べる神「ツクヨミ」と考えられるが、そのツクヨミも「人々の命を「夜見の国」と呼ばれる死後の世界へと導く神」(『EE2』249頁)と説明されており、ザル神=ツクヨミ=メネフィナには死(闇)という共通項が成り立つ。
 また、ナルザルとアーゼマを繋ぐものとして「天秤」がある。ウルダハの国旗は、皆さんご存知の通り天秤の意匠を用いている。

図①

 そして、ウルダハの守護神ナルザルも「天秤を持つ明敏な商人の姿」で描かれる(『EE1』17頁)。一方で、アーゼマの聖人に列せられた「聖アンセルメット」のリーヴプレートにも天秤が描かれている。

図②

 さらに、ウルダハの母都市ベラフディアに遡ると、ベラフディアは日神「アーゼマ」を守護神としていた(『EE2』20頁)。そして、ベラフディアの国旗には、力と知恵の象徴を乗せた天秤の意匠が用いられており、ウルダハの国旗の右側の天秤には「力を表す炎」が引き継がれている(図①、『EE1』128頁)。炎とは火属の神力を有するアーゼマに他ならない。
 このナル(ザル)神とアーゼマを貫く共通項は偶然なのだろうか。ここで想起すべきは、ラールガーとラムウの事例であろう。「古の時代ひとつの神であった存在が、異なる種族により語り継がれた結果が、ラールガーとラムウであるという説」(『EE2』22頁)は、ナルザルとアーゼマにも当てはまらないか。
 古の時代ひとつの神であった存在が、別の存在として語り継がれた可能性である。例えば、旅神「オシュオン」には、別名として放浪神「ワンダラー」という名があったことが指摘されている(『EE2』145頁)。神の名は、同じエオルゼア地域でも異なる場合があるのである。
 あるいは、ナル・ザルという二柱で一つの存在として捉えられる神の存在は、ナルとザルのように、アーゼマとメネフィナもかつては一つの存在であったというメッセージであると受け取れやしないか。これは、ハイデリンが語った「すべての命が生まれるより前、「星の海」の底では光たる「ハイデリン」と闇たる「ゾディアーク」がひとところにあった」(『EE1』75頁)という説明と符合する。
 さらに、メネフィナが「双月」を司る女神であることも忘れてはならない。メネフィナの意匠を改めて見てみよう。

図③

右下に小さな丸がある。かつて、アーゼマとメネフィナが一つであったということを鑑みると、この小さな丸こそがアーゼマではないのだろうか。アーゼマの意匠もまさに「丸=円」である。

図④

つまり、こういうことである。

図⑤:アーゼマがメネフィナから離れた。

 何にせよ、ナルザルは、光と闇の関係性や極性論(万物は活発なアストラルと、静隠なアンブラルの極性を有するという考え方)を象徴するような重要な神なのかもしれないという点は改めて指摘しておきたい。

◆東方の「アマテラス」「ツクヨミ」と「アーゼマ」「メネフィナ」
 『EE2』では東方の神についても詳しく解説がなされた。「天つ神」という古の時代に天から地へと降り立ったとされる神々が紹介され、もっとも高貴とされる三柱の神、すなわち太陽の神「アマテラス」、月の神「ツクヨミ」、海の神「スサノオ」も、天つ神の範疇に含まれるという(『EE2』16頁)。
 ツクヨミについては先述したが、ここでも太陽と月という共通項から、アマテラス=アーゼマ、ツクヨミ=メネフィナが、それぞれ対応する神として考えられる(スサノオは、リムレーンかニメーヤだろうか)。神話の記述だけでなく、それぞれの神を表す意匠も似ている。

図⑥

 また、すでに拙稿で指摘済みだが、アウラ・ゼラの神である太陽神「アジム」と月神「ナーマ」も、アーゼマとメネフィナに対応する。そして、「アジムとナーマは互いに協力し創世の偉業を成し遂げたが、やがて世界の支配圏を巡り対立、相争うようになっていったという」(19頁)という対立の歴史も、アーゼマ(光)とメネフィナ(闇)の対立を物語っているように読み取れる。

◆救世神「ダラガブ」とアーゼマ―光のハイデリン信仰?―
 『EE2』でこれ見よがしに匂わさせている存在が、「最後の群民」である。24~25頁にかけて詳細な解説がなされている。そして、この最後の群民の信仰対象に、アーゼマとメネフィナという二柱の神が深く関わっているのである。最後の群民の教義について、『EE2』では以下のように紹介されている。

「月(メネフィナ)の側に立つのは、忠実な番犬(ダラガブ)である。そしてこの番犬はいつしか忠実なる群民の召喚に応じて救世神としてエオルゼアへと舞い戻り、不誠実な愚民たちに神罰を与える」(『EE2』24頁)

 ここで注意すべきは、月を信仰の対象とした宗教ではないというという点である。同頁には、ミスリードと思しき記述がこれでもかと散りばめられている。例えば、「歴史的に見て、「月」を信仰対象とした宗教が多く存在したことは事実であり、十二神信仰にも月神メネフィナという形で、その残滓が残されている」(24頁)や「アジムステップにて月の女神「ナーマ」を信仰する、とある部族の構成員が増え、急速に勢力を拡大しているというのだ」(25頁)、「月下の供犠」(25頁)がまさにそれである。気を付けなければならない。
 彼らが信仰しているのは、メネフィナの側に立つ、忠実な番犬「ダラガブ」である。月の衛星といわれる「ダラガブ」を救世神として崇めていたのである。では、ダラガブとは何なのか。バハムートであったことは周知の事実である。そういうことではなく、神話からダラガブの存在を捉え直してみたらどうなるのか。

図⑦

 ダラガブとは月の衛星である。当然月よりは小さい。そして丸い。
 ん?小さい丸?

図⑤

 ダラガブ=アーゼマ説というのは考えられないだろうか。救世神「ダラガブ」信仰とは、結局は日神「アーゼマ」信仰なのではないか。そして、アーゼマは光〔星極性〕であり、光とは「ハイデリン」、すなわちダラガブ信仰とは光のハイデリン信仰に他ならなかったのではないか。それを裏付けるかのように、第七霊災は「星極性=光」の霊災であった(『EE1』14頁)。
 月=メネフィナ、ダラガブ=アーゼマとすると、ダラガブが月の忠実な番犬であったという伝承から、「月>ダラガブ」=「メネフィナ>アーゼマ」=「闇>光」=「ゾディアーク>ハイデリン」の力関係が読み取れるのである。

◆アーゼマに対するネガティブ評価―アーゼマを象徴する太陽・炎・赤―
 ここでは、様々な資料からアーゼマの評価を浮き彫りにしていきたい。
 アーゼマは「太陽」を司る神である。この「太陽」について、ドラゴン族は次のように考えている。

「多くの文明において、「太陽」が地に「生」をもたらすと考えられているが、七大天竜にとっては、「太陽」は光や熱を発するエーテルの塊、つまり道具に等しい存在に過ぎないのである」(『EE2』36頁)

 道具に等しいと厳しい評価である。その存在そのものが、生きる歴史たるドラゴン族の言葉は重い。
 次に、アーゼマを象徴する色となる「赤」に着目したい。『EE2』を読んでいると、不思議と「赤色」への記述が多いように感じたのだが気のせいだろうか。そもそも、『EE2』の表紙が「赤」なのである。これは偶然だろうか。
 まず、アウラ族の伝承にあるという「血の赤は、昼と夜を入れ替える色。終わりの色にして、新しきを始める色」(『EE2』51頁)という言葉。赤は血の色であり、「終わりの色」であるという表現には不穏な雰囲気を感じざるを得ない。赤が生命を象徴する血の色という説明は、白魔導士の防具の所でも繰り返されている(『EE2』234頁)。
 コウジン族にも、赤は大きく関わっている。『EE2』では、「コウジン族には、甲羅の色が異なる複数の部族が存在しており、多数派で好戦的な紅甲羅は「武力を示す手」を(中略)」印として掲げている」(238頁)と見える。赤=好戦的と読み取ることができよう。
 中央森林のSモブ「レドロネット」は、赤色と結びついたモンスターである。レドロネットの解説では「かつてグリダニアに美しい赤髪の少女がいた。しかし、第七霊災によって両親と死別。悲しみのあまり、彼女の赤髪は抜け落ち、醜い姿に変じてしまったという(中略)長雨が続くと森に赤い大蛇が現れ、人々を襲うようになった」(『EE2』274頁)とある。赤髪の少女の悲劇性が殊更強調されているのが印象的である。
 そして、先述の「最後の群民」の信徒たちは、血のように赤いローブをまとい、怪しげな儀式を繰り返していた。初期の「最後の群民」たちは、静かに礼拝を捧げる隠れた存在にすぎなかったが、「ダラガブ」が赤い輝きを帯び始めた頃から、誘拐や生贄の儀式など、暴力的な運動へと発展していった(『EE2』24頁)。
 以上のように、血を想起させる赤(アーゼマの象徴たる赤)は、ネガティブな感情に結び付きやすい。
 一方で、メネフィナの評価には肯定的なものが多い。例えば、シロ・アリアポーが身寄りのない子供たちのために立ちあげた孤児院が「メネフィナの家」である(『EE2』121頁)。ちなみに、シロが堅くなったフラットブレッドばかり食べて鍛えられたせいか、虫歯がないという自慢も、メネフィナの聖人サリサの逸話に基づくものである(『EE2』28頁)。
 また、南部森林のSモブ「マインドフレア」の説明に、メネフィナの語が見える。ここで再登場するのが「最後の群民」である。

「黒衣森に入り込んだカルト集団「最後の群民」の残党が、妖異マインドフレアと契約を交わすことに成功した」
「月の光届かぬ日に人の骸を依り代として捧げる不浄な儀式を執り行うことで、この世に顕現するとのこと。月神「メネフィナ」の加護がない日には要注意である」(『EE2』275頁)


 メネフィナの番犬たるダラガブを救世神として崇める最後の群民が、メネフィナが見ていない隙に妖異を召喚するという文脈が読み取れ興味深い。妖異と相反する存在としてメネフィナを考えることもできる。ここから読み取れるイメージは勿論肯定的であろう。

◆ハイデリンへの疑念
 上記のアーゼマとメネフィナの評価を鑑みると、「アーゼマ=光=ハイデリン」⇔「メネフィナ=闇=ゾディアーク」と考える者にとっては、ハイデリンへの疑念は深まるばかりである。
 繰り返しになるが、『EE2』では歴史というものに対する疑義が露骨といってよいほどに提起されている。特に、偽りの歴史を紡いできたイシュガルド正教への目線は厳しい。

「竜を悪しき存在と断定し、それらとの戦いを聖戦と位置付ける正教の教義の根幹部分が、竜詩戦争を前提として改変されたものに過ぎず、何ら正当性を持ったものではなかった」(『EE2』21頁)

 これを他人事のように受け取っていて良いのだろうか。「竜」を「闇」に置きかえてもう一度読んで欲しい。
 我々がミンフィリアを通してハイデリンから聞いた話は、「闇を悪しき存在と断定し、それらとの戦いを聖戦〔正義の戦い〕と位置付ける」ものではなかったか。ハイデリンの話に正当性はあったのだろうか。ハイデリンの正しさを証明するものは、ない。

史学者 kaede takagaki