FF14の世界観をより楽しむための基軸~「文明―野蛮」理解と憎しみの感情~


※本稿は「紅蓮のリベレーター」のネタバレを含む、世界観考察です。未プレイの方はご注意下さい。

1.はじめに
 先日、「紅蓮のリベレーター(以下、紅蓮と略称)」をクリアした。まさか、「蒼天のイシュガルド(以下、蒼天)」を越えるほどの面白さを自分が感じるとは思ってもみなかった。それ程、私の中で「蒼天」の完成度は高かった。
 「紅蓮」のテーマは、「戦争と解放」といえるだろう。これは、以前に指摘したことだが、FF14の世界は、戦争の世紀とも言われた19世紀~20世紀の国際社会と重なる部分が少なくない。今回「紅蓮」のプレイを通し、その意をより強くした。さらに、指摘するのであれば、FF14の世界観担当の方はかなり歴史に精通しておられるのかと。それは、歴史的事象にただ詳しいといった意味ではなく、個々の歴史的事象を歴史的文脈の中に位置づけなおせるレベルに歴史学というものを理解している――そんな方がいらっしゃるのだろうと。
 以下、FF14の世界観を考える上で重要であろうポイントと、19世紀~20世紀の国際規範意識を重ねながら考察してみたい。この点を見ていくことで、FF14の製作者がいかに歴史学に精通しているかも浮き彫りになるだろう。

2.「文明―野蛮」理解
 FF14の世界観を捉える上で、最も重要となるポイントは「文明―野蛮」という理解である。FF14世界の価値基準と言い換えても良い。

 
 最も解り易いのが、ガレマール帝国である。ガレマール帝国(以下、帝国と略称)は、自国こそが文明国であると信じて疑わず、その他の国を野蛮な国と断ずる。蛮神を召喚する獣人だけでなく、エオルゼア民も「蛮族」と呼称していることからも、これは明らかである。


 ここで指摘しておきたいのが、19世紀以降の国際社会(リアル世界)においても、世界は「文明人」の国、「野蛮人」の国に分類されていたということである。
 歴史学においては、「文明という思想基軸のもとに、異なった空間に存在する社会や人間の状態を時間的な前後関係に置き換え、そこにある多様性を文明化段階の到達度の違いとして配列するという世界の捉え方」と定義される。すなわち、「欧米社会は人類進歩の頂点に位置し、他の社会はそれ以前の遅れた段階にあるとみる世界認識」が、当時の国際規範意識だったのである(山室信一、2001『近代日本のアジア認識』所収)。
 この「文明―野蛮」理解において重要となるのが、「文明」の普及のための戦争は正当化されるという点である。日本においても、19世紀末頃には、日本社会の大勢が「文明」のものさしによって、帝国主義の時代の「弱肉強食」の世界観を理解し、「文明」の普及のための戦争を正当化する見方を有していた(山口、2015)。「文明対野蛮」の戦争として正当化されていたものといえば、1894年(明治27年)の日清戦争が最も有名であろう。
 この点を踏まえ、FF14の世界を捉え返すと、FF14における戦争もまた「文明対野蛮」の戦争として捉えることができる。これは、帝国側だけの認識ではない。帝国と敵対しているエオルゼア側もまた帝国を野蛮視している。特にゲームで強調されているのは、帝国の「残虐性」「暴力性」である。例えば、生物だけを死滅させることのできる化学兵器「黒薔薇」の存在や、属州民に対する暴力、両親を卑下させるといった行為など、その例は枚挙に遑がない。ユウギリにして「人の子ではないのかッ!?」と言わしめるほどである。


 帝国にとって、エオルゼア民を含む「蛮族」を駆逐することは、野蛮を挫くことに他ならない。一方のエオルゼア民にとっても、帝国との戦争は帝国の「野蛮」を挫く戦争として正当化されているのである。
 「文明―野蛮」理解は、国・人の善悪に容易に結びつく。そして、帝国側に顕著であるが、野蛮な対象には、蔑称が使用され、暴力も容認されていく。暴力的行為が野蛮な行為であることは、都合よく忘れ去られる。
 他者表象はまぎれもなく自己認識の反映であり、同時に対象として意識された他者に対する関係意識の反映でもある(前掲山口論文)。裏返せば、そうした他者認識の現れこそ、「文明―野蛮」という基準において、帝国は「文明国」であるという強い自己認識(自意識)を支える根拠ともなっていたのである。さらに言及するのであれば、「文明国」たる帝国こそが「野蛮」な帝国外の地域を善導すべき存在であるといった自己認識を形成していたとの考えられるのである。

3.「憎しみ」の心、「怒り」の感情
 戦争をする上で重要となるのが、「敵愾心」である。すなわち、憎しみの心や怒りの感情である。感情心理学では、「怒り」の感情について、闘うことの準備態勢を作り上げるものであると定義する(ディラン・エヴァンズ、2005)。相手への憎しみの感情(敵愾心)がなければ、相手を殺すことはできない。戦争の勃発とともに、否応なしに敵愾心の宣揚がはかられることは、戦争を遂行する上で必要不可欠だからである。
 エオルゼア側に立つ我々光の戦士もまた、帝国を倒す大義名分が必要である。帝国は倒すべき悪でならなくてはならない。実際、「新生」から続く長い旅路の中で、光の戦士は帝国の横暴を数々目にする。プレイヤーが帝国はやっつけられてしかるべきだ!と思わないことには、ストーリーが進まない。ヨツユのような非道なキャラクターが登場するのも、帝国への悪感情を抱かせるために必須であったといえよう。
※一方で、帝国との戦いに冒険者たる光の戦士が手を貸すことに若干の違和感を感じたプレイヤーもいたはずである。
 光の戦士の仲間であるドマの関係者、アラミゴの関係者も須らく同じである。一人として帝国に憎しみを感じていない人物はいない。


 FF14の世界は「憎しみ」の連鎖で構成されているといってよい。「紅蓮」では、帝国に市民権を持つ若い世代の髑髏連隊やドマ総督代理のヨツユなどが象徴的であった。
 「帝国対属州」「支配と被支配」という二項対立に単純化せず、被支配の中で懸命な模索を続けていた人物や異なる価値観の存在を看過することなく提示している――このことに深い感動を覚えずにはいられなかった。


4.おわりに

 以上見てきた、FF14世界と19世紀~20世紀における国際規範意識の符合はおそらく偶然ではない。「紅蓮」で広がった世界が、19世紀以降の日本や中国、モンゴルと多少なりとも類似していたことは誰の目にも明らかであった(クガネの鎖国体制などが顕著)。FF14の凄い所は、歴史の表面的な部分(ビジュアル面)だけをゲームに取り込んでいるのではなく、当時の世界像や価値基準も同時的に取り込んでいることである。現在の価値観で当時の世界を評価することは、歴史学の禁忌である。FF14は同時代の視点で同時代の歴史・世界像を捉えようとする。その真摯な姿勢に私は「蒼天」以上の感動を「紅蓮」に感じたのであった。

史学者 kaede takagaki